「心の影」の解説、第1回目です。この本は、物理学者のロジャー・ペンローズが1994年に書いた本で、前作「皇帝の新しい心」の続編にあたります。テーマをひとことで言うと、「人間の意識は、コンピュータの計算では説明しきれないのではないか」という問いです。今回は第1章の最初の節、「心と科学」を読みます。本全体の出発点になる、宣言のような節です。
節の冒頭でペンローズは、いちばん大きな問いを投げかけます。科学は、究極的にはどこまでを扱えるのか。科学の方法で扱えるのは宇宙の物質的な性質だけで、心は永遠にその外側にあるのだろうか。それとも、影のような心の謎が、科学によって正しく理解される日が、いつかやってくるのだろうか。この問いが、本の全体を貫いています。
この問いに対する世の中の答えは、大きくふたつに割れています。一方には、意識に謎などない、と考える人たちがいます。脳はたしかに極端に複雑だが、それは複雑さの問題にすぎず、原理的には今の科学の枠内で説明できる、という立場です。反対の極には、心や精神の問題、とりわけ意識の謎そのものは、感情を持たない科学の冷たい計算的な手続きでは、永久に扱えない、と考える人たちがいます。
では、ペンローズ自身はどちらの側なのか。実は、どちらでもありません。ここがこの本のいちばん大事なところです。彼は、意識の問題にあくまで科学の立場から取り組みます。だから、科学には手が届かないという神秘主義には反対です。しかし同時に、今の科学が描き出す世界像には、本質的な要素がひとつ欠けている、とも主張します。つまり、今の科学のままで説明できるという多数派にも反対なのです。その欠けている要素は、科学を超えたものではない。ただし、それを取り込むには、科学の世界観そのものを適切に拡張する必要がある。本の後半、第2部では、物理法則の基礎に重大な変更を加えるという、かなり思い切った方向へ話が進むことが、ここで予告されます。
議論の進め方についての断り書きもあります。できるかぎり初等的な概念だけで話を進め、数学はどうしても必要なときにだけ使う。自分の議論に全員が納得するとは思っていないが、無視してはならない論拠を示すつもりだ、ということです。
節の締めくくりは、こうです。意識ある心の問題と深いところで折り合っていない科学的世界観は、完全だと自負することはできない。意識はこの宇宙の一部なのだから、意識の居場所を用意していない物理理論は、世界の記述として何かが足りない。そして、意識や知能の説明に本当に近づいている理論は、物理学にも、生物学にも、計算の理論にも、まだ存在しない、と彼は言い切ります。それでも、探究をやめてはいけない。科学と心に対するわれわれの見方が、われわれをどこに連れていくのか、見てみようではないか。この誘いの言葉で、最初の節は終わります。
次回は、第1章のふたつめの節、「ロボットはこの面倒な世界を救うことができるか」です。技術への期待と、人工知能への大きな期待の話から始まります。第1回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第2回目です。今回は第1章のふたつめの節、「ロボットはこの面倒な世界を救うことができるか」。前回、ペンローズは「今の科学には、意識を扱うための本質的な要素が欠けている」と宣言しました。今回の節では、その反対側、つまり「コンピュータはやがて人間を超える」という人工知能への楽観論を、ペンローズ自身があえていちばん強い形で紹介します。あとで批判するための、相手側の主張の要約です。
節はまず、人間の愚かさの話から始まります。新聞やテレビを見れば、戦争、宗教的な熱狂、民族どうしの対立、専制と拷問。長く自由を拒まれてきた人々が、やっと手にした自由を、自分を壊すやり方で使ってしまうことさえある。恵まれた国でも、資源と人の力は無意味に浪費されている。我々は自分を動物界の知能の頂点と見なしているのに、その知能は、社会が直面する問題の処理には悲しいほど向いていないように見える、というわけです。
それでも、人間の知能は明るい成果ももたらしてきました。科学と技術です。眼鏡や望遠鏡は視力を、補聴器や電話は聴覚を、列車や飛行機は移動の力を、書物やコンピュータは記憶と計算の力を、大きく広げてきました。技術は体の能力だけでなく、決まりきった仕事をこなす心の能力も広げてきたのです。ちなみにペンローズ自身がいちばん期待を寄せるのは、技術を教育に生かす方向だと述べています。では、決まりきっていない仕事、本物の知能が要る仕事はどうか。それもコンピュータに助けてもらえるのではないか、と話が進みます。
ここで、多くの専門家の主張が紹介されます。人工知能は、原理的には人間の知能を超えうる。ロボットがいったん「人間の等価物」の水準に達すれば、我々を追い越すのに時間はかからない。実現までの見積もりは、何世紀も先だという人から、ほんの数十年先だという人までさまざまです。数十年と言う人たちの根拠は、速さです。トランジスタは1秒におよそ10億回働けるのに対して、ニューロンは1秒にせいぜい1000回ほど。すでに100万倍以上速いうえに、動作は正確で、時間の調整も精密。しかも脳の配線は雑でランダムだが、電子回路は精密に設計できる、というわけです。
一方、数の上では、まだ脳が勝っています。ニューロンの総数は1000億個を超え、つながりの数も桁違いです。たとえば小脳のプルキンエ細胞というニューロンは、最大で8万個もの接合部を持ちますが、トランジスタのつながりは、せいぜい3個か4個です。ただしペンローズは、この優位は長くは続かないだろう、と認めます。コンピュータはいくらでも大きく作れるし、部品をレーザーのような光学装置に置き換えて、速さを莫大に高めることもできる。何より、脳はひとつの細胞から育たなければならないなど制約だらけなのに対して、コンピュータは、必要なものを計画的に作れるからです。
すると、人工知能のいちばん強気な主張を信じるなら、こうなります。コンピュータはやがて人間のあらゆる能力を追い越し、自分自身の巨大な知能を持つ。我々はどんな関心事でも、この高位の知能に助言を求めればよい。そして、人間が引き起こした厄介ごとは、ついに解決される。しかし、この筋書きには、ぞっとする続きがあります。そこまで優れたロボットは、人間抜きで世界を運営したほうがうまくいく、と気づくのではないか。運がよければ、エドワード・フレッドキンが語ったように、ロボットは我々をペットとして飼ってくれる。聡明であれば、ハンス・モラヴェックが主張したように、我々は自分という「情報のパターン」をロボットの体に移せるかもしれない。だが、運もなく、聡明でもなかったら……。節は、この不吉な言いさしで終わります。
繰り返しますが、ここまでの楽観論はペンローズの意見ではなく、これから吟味される相手の主張です。次回は、第1章の3番目の節、「計算と意識的思考のエー、ビー、シー、ディー」。意識と計算の関係についてとりうる4つの立場が整理される、本全体の見取り図になる節です。第2回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第3回目です。今回は第1章の3番目の節、「計算と意識的思考のエー、ビー、シー、ディー」。意識と計算の関係について、人がとりうる立場を4通りに整理する、本全体の見取り図になる節です。この後の議論はすべて、ここで決めた呼び名を使って進むので、とても大事な回です。
前の節で見た楽観論は、計算の速さや記憶の量の話でした。しかしペンローズは問います。問題は本当に、速さや正確さや配線の細かさだけなのか。我々は脳を使って、計算という言葉ではそもそも記述できない何かをしているのではないか。幸福、苦痛、愛、美しさの感覚、意志、理解。こうしたものは、計算の描像のどこにはまるのか。未来のコンピュータは、本当に心を持つのか。
そこで、合理的に主張できる立場が4通り挙げられます。エーは、「すべての思考は計算である」という立場。意識の感覚も、適切な計算を実行すれば、それだけで生じるという考えです。ビーは、「意識は脳の物理的な働きの特性だ」という立場。脳の働きは計算でそっくりシミュレートできるが、シミュレーションそれ自体は意識を生まない、と考えます。シーは、「意識は脳の物理的な働きから生じるが、その働きは、計算ではシミュレートすることさえできない」という立場。そしてディーは、「意識は物理でも計算でも、およそ科学の言葉では説明できない」という立場です。
ディーは神秘主義の立場で、ペンローズはこれを退けます。心は今の科学としっくりきていないが、永遠に科学の外にあるわけではない。科学の範囲を広げ、必要ならその手続きさえ修正して、取り組むべきだ、と。いっぽうエーは、「強いエーアイ」や「機能主義」と呼ばれる立場で、前作「皇帝の新しい心」で批判の的にしたものです。極端な形では、宇宙そのものが巨大なコンピュータであり、その計算の一部が我々の心だ、とまで言います。
エーがそれなりに魅力的なのには、理由があります。体や脳の素材は絶えず入れ替わっていて、持続しているのはパターンだけです。物質は形を変えるし、質量さえエネルギーに変換できる。だから「自己」とは物質そのものではなく「情報のパターン」だ、という考えには一理あります。さらに、こういう思考実験があります。人間とまったく同じように受け答えするロボットがいて、「自分には意識がある、うれしい、赤が見える」と語るとする。人間が相手ならそれ以上疑わないのに、ロボットの言葉だけ信じない理由があるのか。この、受け答えで意識を判定するやり方は、テューリング・テストと呼ばれます。
このテストの扱いが、立場の分かれ目になります。エーは、受け答えが完璧なら、本当に意識がある、と認めます。ビーは、完璧な受け答えをするロボットは作れるが、それは意識のない、ただの物まねでありうる、と考えます。シーはさらに手前で分かれ、完璧な受け答えをするロボットは、そもそも作れない、と考えます。質問を十分長く続ければ、ロボットにはどこかでぼろが出るはずだ、というわけです。
ビーは、多くの人が科学的な常識と見なす立場で、「弱いエーアイ」とも呼ばれます。哲学者ジョン・サールの言い方が有名です。ハリケーンのコンピュータ・シミュレーションは、ハリケーンではない。大事なのは、何が計算されているかではなく、どんな物質が、どんな物理的活動をしているかだ、という考えです。そしてシーが、ペンローズ自身の立場です。シーの中にも、今の物理学のままで計算できない振る舞いは見つかる、という穏健な変種と、根本的に新しい物理学が必要だ、という強い変種があり、ペンローズは強いほうを取ります。量子の世界と日常の世界の中間に、新しい理解が必要だと言うのです。
「科学の外に答えを探すなら、結局ディーと同じではないか」という批判には、こう答えます。シーにとって意識の問題は、まだ道具がそろっていないだけで、あくまで科学の問題である。ここがディーとの決定的な違いです。なお、この4つは極端な形で、実際の人の考えは、中間や組み合わせもありえます。特に、「脳はコンピュータだが、複雑すぎて人間には真似できない。作れたのは、最良のプログラマーである神だけだ」という、エーとディーの組み合わせは、後の議論で大事な役割を演じます。次回は、1.4「物理主義対心理主義」です。第3回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第4回目です。今回は第1章の4番目の節、「物理主義対心理主義」。前回定義したエー、ビー、シー、ディーをめぐる、言葉づかいについての節です。今回は短めです。
心の問題を論じるとき、対立する立場を指すのに「物理主義」と「心理主義」という言葉がよく使われます。物理主義は、世界にあるのは物理的なものだけだ、という立場。心理主義は、心は物理には還元できない、という立場です。ディーは物理主義の完全な否定なので、心理主義に数えられます。ここまでは簡単です。ところが、残るエー、ビー、シーについては、どこに線を引けばいいのか、ペンローズにはさっぱり分からない、と言います。
ふつう、「すべての思考は計算だ」というエーの人たちは、物理主義者と見なされ、本人たちもそう名乗ります。しかし、ここに逆説めいたものがあります。エーによれば、考える装置が何でできているかは重要ではなく、心を決めるのは、実行されている計算だけです。ところが計算とは、抽象的な数学であって、特定の物体と結びついてはいません。つまりエーでは、心は物理的なものと具体的なつながりを持たないことになる。それなのに「物理主義」と呼ぶのは、少しおかしいわけです。
逆に、ビーとシーは、本物の心が宿るかどうかを決めるうえで、物の実際の物理的な組成が効いてくる、と考える立場です。だから、むしろビーとシーのほうが物理主義的だ、と論じることもできます。ところが世間の用法では、心を、計算のついでに起こる「随伴現象」ではなく「現実の存在」と見なすビーとシーのほうを、心理主義と呼ぶことが多い。用語が、ねじれているのです。
そこでペンローズは、こう決めます。この本では「物理主義」「心理主義」という言葉は使わない。かならず、前回定義したエー、ビー、シー、ディーという記号で立場を指すことにする。次回は、1.5「計算、トップダウンとボトムアップの手続き」。「計算」という言葉の中身をきちんと決める節です。第4回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第5回目です。今回は第1章の5番目の節、「計算、トップダウンとボトムアップの手続き」。ここまで保留にされてきた「計算」という言葉の中身を、きちんと決める節です。
ペンローズの定義はこうです。計算とは、ふつうの汎用コンピュータがやる活動のこと。ただし、理想化して考える。つまり、誤りをまったく犯さず、必要なだけ動き続けられて、記憶の容量に制限がない、数学的に理想化されたコンピュータの活動です。この理想のコンピュータを、考案者の名前をとって、テューリング機械と呼びます。現代のコンピュータの、理論上の先祖です。あわせて、この本では「アルゴリズム」という言葉を、「計算」とまったく同じ意味で使う、と断りが入ります。
そのうえで、計算の組み立て方をふたつに分けます。まず、トップダウン。問題の解き方の手順が、前もってきちんと定義され、明確に理解されている場合です。あらかじめ与えられた知識の蓄えを含んでいても構いません。ふたつの数の最大公約数を求める、ユークリッドの互除法が簡単な例です。
対になるのが、ボトムアップです。こちらは、決まった規則と知識を、あらかじめ与えられていません。その代わり、システムが「経験」から「学び」、やり方を自分で改善していくための手順があります。実行するたびに結果が評価され、次の結果が良くなるように、演算の規則が修正されていく。たとえば、顔写真を入力して、どれとどれが同じ人かを判定させ、答え合わせのたびに規則を直させる、という具合です。この型の代表が、脳のニューロンのつながりが経験で変わっていく仕組みをまねた、人工ニューラル・ネットワークです。
この節でいちばん大事なのは、次の一点です。トップダウンもボトムアップも、どちらも汎用コンピュータの上で動く。つまり、どちらも「計算」なのです。ボトムアップは、一見すると自分で成長する別物に見えますが、「どう学ぶか」「規則をどう直すか」という手順そのものは、あらかじめ指定された、純然たる計算です。違いは、過去の実行の「記憶」を取り込みながら動くかどうかだけです。今の生成エーアイや深層学習も、この意味ではボトムアップ型の計算に含まれます。だからペンローズの議論は、現代のエーアイにも、そのまま向けられています。
得意分野の違いも述べられます。トップダウンが得意なのは、規則とデータがはっきり定義できる領域。数値計算、チェスのプログラム、規則化された医療診断などです。ボトムアップが効くのは、判定の基準がうまく言葉にできない領域。顔や声の識別などです。ペンローズの当時の見立てでは、コンピュータが人間にはっきり勝ってきたのはトップダウン型の領域だけで、ボトムアップ型が訓練された人間に並ぶ例はごく限られている、とされます。このあたりは1994年の本なので、今とはだいぶ景色が違うところです。
最後に、直列と並列という区別にも触れます。並列コンピュータは、多数の計算を同時に進めます。しかし、並列の動作はつねに直列でシミュレートできるので、原理の上では両者に区別はありません。変わるのは効率だけです。この本の関心は原理なので、この区別は重要ではない、と片づけられます。次回は、1.6「観点シーは、チャーチ・テューリングのテーゼを破っているか」。第5回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第6回目です。今回は第1章の6番目の節、「観点シーは、チャーチ・テューリングのテーゼを破っているか」。ペンローズ自身の立場であるシーに向けられる、ひとつの批判に答える節です。
シーは、意識ある脳は、トップダウンだろうとボトムアップだろうと、どんな計算的シミュレーションをも超える仕方で働く、という立場でした。これに対して、「それは、チャーチのテーゼという有名な原理に矛盾するのではないか」と疑う人がいます。今回は、この疑いをほどく話です。
チャーチのテーゼとは何か。アメリカの論理学者アロンゾ・チャーチが1936年に唱えたもので、元の形はこうです。「純粋に機械的」と呼べる数学的な手続きは、どれも、チャーチが考案したラムダ算法という枠組みの中で実行できる。その直後、イギリスの数学者アラン・テューリングが、前回登場したテューリング機械を使って、同じことをはるかに説得力のある形で表現しました。ふたつの枠組みは等価であることが証明され、現代のコンピュータは、テューリングの考えから生まれました。そこで今では、このテーゼはこう言い換えられます。数学的アルゴリズムとは、理想化された現代のコンピュータで実行できることがら、そのものである。
ここが今回の急所です。この元々のチャーチのテーゼは、純粋に数学の中の話です。「アルゴリズム」という言葉の定義を決めているだけで、ほとんど同語反復です。だから、シーとはまったく矛盾しません。シーが疑っているのは、脳という物理的なものの働きを計算で真似できるかどうかであって、数学の定義の話ではないからです。ところが、テューリング自身は、もっと強いことを考えていたふしがあります。どんな物理的な装置の計算能力も、理想化すれば、テューリング機械と等価である。つまり、脳の活動を含むあらゆる物理的活動は、テューリング機械の活動に還元できる、という考えです。
そこでペンローズは、言葉を分けることを提案します。数学の主張のほうを「チャーチのテーゼ」、物理の主張のほうを「テューリングのテーゼ」と呼ぶ。この本では、この使い分けを採用します。すると、こう整理できます。シーと衝突するのは、チャーチのテーゼではなく、テューリングのテーゼである。そしてテューリングのテーゼは、証明された定理ではなく、ひとつの仮説にすぎません。次回は、1.7「カオス」。この本で最初の図、ローレンツのアトラクターが登場する節です。第6回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第7回目です。今回は第1章の7番目の節、「カオス」。前回、シーと衝突するのは、あらゆる物理はテューリング機械に還元できるという「テューリングのテーゼ」だ、と整理されました。ここからは、「今の物理学の中に、計算できない働きの候補はないのか」を順に調べる作業が始まります。最初の候補が、カオスです。
カオスとは、物理系が手に負えない、予測不可能な仕方で振る舞う、数学的な現象のことです。カオス的なシステムの特徴は、未来の振る舞いが、出発時点の状態に極端に鋭敏に依存すること。ここで大事なのは、ふつうのカオス的システムは、完全に決定論的で、計算可能だということです。それなのに、実際上は、まるで決定論的でないかのように振る舞う。未来を予測するのに必要な初期状態の精度が、測定できる限界を、あっさり超えてしまうからです。

ここで、この本で最初の図が出てきます。ローレンツのアトラクターという有名な図形で、簡単な微分方程式だけから、蝶の羽のような、ランダムに見える軌道が生まれる例です。画面で見られる方は、図を見てみてください。おなじみの例は、天気の長期予報です。空気の分子を支配する法則は完全に分かっているのに、数日先の天気は、初期条件に微妙に依存しすぎて、必要な精度で測ることができません。もっとも、天気は関わる量が莫大なので、予測できなくても驚きはありません。ペンローズが強調するのは、ごく単純な系でもカオスが起きることです。ビリヤードの球を、間隔をあけて、折れ線の形に5個並べる。最初の球を突いて、順にぶつけていき、最後の球をポケットに落とす。これに必要な精度は、どんな名人の腕も超えています。20個並べたら、現代技術のどんな正確な装置でも無理です。隣の街で誰かが吐いた息ほどの小さな影響でも、計算を無駄にするほど精度が乱れるからです。
この球の話には、脚注に告白がついています。球が正確に一直線に並んでいる場合だけは、たまたま安定が生じて、この芸当は簡単にできてしまう。ペンローズは自分で試して驚いたそうです。だから、「折れ線の形に」という条件が要るのです。
さて、今回の急所です。予測がこれほど難しいにもかかわらず、カオス的システムは、すべて「計算的」に含まれます。判定の仕方はいつもと同じで、「それは汎用コンピュータで扱えるか」と問うだけです。答えは明らかにイエス。カオスの数学的システムは、現に、コンピュータで日常的に研究されているからです。シミュレーションの結果は、現実の経過とは似ても似つかないものになるでしょう。しかし、「典型的なケース」としては、完全にもっともらしい。予報された天気は、実際の天気にはならなくても、ひとつの天気としては筋が通っています。しかも、同じ入力でもう一度走らせれば、結果は完全に同じになります。
人工知能にとっては、これで十分だとペンローズは言います。目指しているのは、特定の誰かの再現ではなく、ひとりの人間らしいものの再現だからです。典型的な天気と同じ意味で、典型的な知能のシミュレーションができるなら、それはエーやビーの立場に十分合致します。つまりカオスは、シーが必要とする「計算できない物理」の候補にはなりません。実際に予測できるかどうかと、原理として計算的かどうかは、別の問題なのです。次回は、ふたつめの候補を調べる1.8「アナログ計算」。第7回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第8回目です。今回は第1章の8番目の節、「アナログ計算」。「計算できない物理」の候補調べの、ふたつめです。前回のカオスに続いて、今回は、連続的な量を使う計算、アナログ計算が調べられます。
これまでの「計算」は、デジタル、つまり離散的なオンとオフの状態を使う、テューリング機械の意味での計算でした。しかし、連続的な物理量で計算する装置もあります。昔の計算尺が、その代表です。目盛りの長さという連続量が数の対数を表していて、ずらして足せば、掛け算になる。長さのほかにも、時間、質量、電圧などの連続量を使う装置が作られてきました。
ここで問題が生じます。テューリングの計算可能性という物差しは、厳密には離散的なシステム専用で、距離や電圧のような連続量には、そのままでは当てはまりません。ふつうの対処は、連続量を離散的な数で近似することです。物理系のシミュレーションでは、これが標準のやり方です。しかし、近似には誤差がつきもので、系によっては選んだ精度では足りず、間違った結論が出ることもある。精度は原理的にはいくらでも上げられますが、カオス的な系では、必要な計算時間と記憶量が、現実には手に負えなくなりえます。しかも、「どこまで上げれば十分か」を、はっきり知る方法がないのです。
別の道もあります。連続的なシステムに、テューリングの計算可能性を連続版に拡張した、独自の「計算可能性」を定義してやる方法です。数学としては面白いのですが、離散の場合のテューリング計算可能性が持つ、有無を言わせない自然さには、まだ達していません。おかしなことも起きます。この定義だと、物理でおなじみの簡単な波動方程式にすら、技術的な意味での「計算不可能性」が生じてしまうのです。逆に、理論上のアナログ・コンピュータのかなり広いクラスは、ふつうのテューリング計算可能性を超えられない、という研究もあります。要するに、決着はついていません。
そこでペンローズは、この本では「計算的」を、いつものテューリング計算可能性の意味で使う、と決めたうえで、この話が観点シーの内部の区分に関わることを指摘します。第3回で触れた、シーの弱い形と強い形です。弱いシーは、脳の計算不可能な振る舞いの土台は、今日の物理学で完全に理解できる働きだ、とする立場。その場合、その働きは、デジタルでは真似できない形で連続量に依存しているはずです。強いシーは、計算不可能性は、まだ発見されていない物理理論から生じる、とする立場。ペンローズは強いほうを取ります。当面の見立てとしては、これまで真剣に考えられてきた信頼できるアナログ・システムは、少なくとも原理的には、デジタルで有効にシミュレートできるだろう、とされます。
実用の面でも、今はデジタルが有利です。デジタルは、桁を増やすだけで精度が上がるのに対して、純粋なアナログ機械で精度を上げるには、装置そのものを大きくしていくしかありません。つまりアナログ計算も、カオスと同じく、「計算できない物理」の決定打にはなりませんでした。次回は、1.9「計算不可能になりうるのはどんな種類の活動か」。いよいよ、本当に計算できないものの例が出てきます。第8回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第9回目です。今回は第1章の9番目の節、「計算不可能になりうるのは、どんな種類の活動か」。カオスもアナログも「計算」に含まれてしまい、シーの居場所が心配になってきたところで、いよいよ、本当に計算できないものの実例が示されます。この本の第1章で、いちばん歯ごたえのある回です。
その前に、残っていた候補がふたつ、片づけられます。まず、ランダムさ。量子系からの入力を使えば、本当にランダムな入力が得られます。しかし、計算で作れる疑似ランダムと比べて、真のランダムで何が得になるのかが分かりません。ペンローズは後の章で、純粋なランダムさは我々の役に立たない、という論拠を示す予定だと述べます。次に、環境。人はそれぞれ、誰とも共有しない独自の環境で育ちます。これが計算を超えた入力ではないか。しかし、これはカオスのときと同じ理屈で退けられます。もっともらしい典型的な環境がシミュレートできるなら、ロボットの訓練にはそれで十分だからです。逆に、「外の世界には計算できない何かがある」と認めてしまうと、エーやビーの支持者は困ります。外の世界にあるのなら、外の世界より精巧な脳の中にあってもおかしくない、ということになるからです。
もうひとつ、大事な断りが入ります。シーが求める「計算不可能」とは、実際上むずかしいという意味ではありません。時間がかかりすぎる、記憶が足りない、プログラムが書けないほど複雑だ、というのは、どれほど絶望的でも、原理としては「計算」です。シーに必要なのは、原理的に計算を超えているものです。
では、そんなものが本当にあるのか。あるのです。それも、数学的に正確に定義され、計算を超えていることが証明されている問題のクラスが。最初の例は、有名な「ヒルベルトの第10問題」です。1900年に大数学者ヒルベルトが出した問題で、内容はこうです。整数だけを係数とし、整数の解だけを求める多項式の方程式、いわゆるディオファントス方程式の組が与えられたとき、それが解を持つかどうかを判定する計算手順を見つけよ。答えが「持つ」場合は簡単です。整数を片っ端から代入していけば、いつかは見つかります。難しいのは「持たない」と判定するほうです。偶数と奇数の食い違いで解なしを示す、といった個別の証明の道具はいくらでも作れますが、1970年、ロシアの数学者マティヤセヴィッチが証明を完成させ、すべての場合を判定できるアルゴリズムは存在しない、と決着させました。
ふたつめの例が、タイル張り問題です。何種類かのタイルの形が与えられたとき、その形だけを使って、無限に広い平面を、隙間も重なりもなく敷き詰められるか、を判定せよ、という問題です。これも1966年に、判定するアルゴリズムは存在しないことが証明されました。図1.2に、正方形をつないだ形のタイル、ポリオミノの例が載っています。面白いのは、この証明の土台に、「敷き詰められるのに、決して周期的には敷き詰められない」という奇妙なタイルの組の存在があることです。図1.3がその例で、たった3種類の形が、平面を埋め尽くすのに、どこまでいっても同じ繰り返しが現れません。


そして、この節の山場です。ペンローズは、この「判定できない問題」を使って、おもちゃの宇宙を組み立てて見せます。時間が、ゼロ、1、2、3、と離散的に進む宇宙を考えます。各時刻の宇宙の状態は、ポリオミノの集合です。あらゆるポリオミノの集合に、番号を付けて並べておきます。そして進化の規則はこうです。いまの集合が平面を敷き詰められるなら、次の番号に進む。敷き詰められないなら、ひとつ飛ばして、その次の番号に進む。これだけです。この宇宙は、完全に決定論的です。規則は明快で、あいまいさはひとかけらもありません。それなのに、この宇宙の成り行きは、どんなコンピュータでもシミュレートできません。「敷き詰められるか」を判定する計算手順が、存在しないからです。

「決定論的であること」と「計算可能であること」は、同じではない。これが今回の結論です。ふたつは普段ほとんど区別されずに語られますが、明快な法則で完全に決まっていながら、計算では追いかけられない宇宙が、論理的にはありうるのです。もちろんペンローズも、これを現実の宇宙のモデルとして出しているわけではありません。それでも、こういう何かが物理法則の中に本当にあるはずだ、というのがこの本全体の主張です。次回は、1.10「未来については?」。エー、ビー、シー、ディーそれぞれの立場から見た未来像の話です。第9回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第10回目です。今回は第1章の10番目の節、「未来については?」。エー、ビー、シー、ディーの4つの立場それぞれから見ると、この惑星の未来はどう見えるか、という話です。
まず、エー。すべての思考は計算だ、という立場です。この立場では、適切にプログラムされたスーパーコンピュータが、人間のあらゆる心的能力に追いつき、追い越す日が、いずれ必ず来ます。時期の見積もりは、人によって大きく違います。何世紀もかかる、と慎重に見る人もいれば、ハンス・モラヴェックは、著書「マインド・チルドレン」で、2030年頃には「人間等価物」は超えられている、と論じました。もっと早い予想もあり、なかには、予測された年代がもう過ぎてしまっているものさえある、とペンローズは皮肉を言います。ただし、エーには救いが用意されています。心は計算のパターンにすぎないのだから、「心のプログラム」をロボットの体に移し替えれば、我々は不死さえ手に入れられる、と約束されるのです。
次に、ビー。意識は脳の物理的な働きの特性で、計算だけでは意識は生まれない、という立場です。ペンローズの見立てでは、実は、4つの中でいちばん悲観的な未来を描くのが、この一見常識的なビーです。理由はこうです。ビーも、脳の働きが計算で完全にシミュレートできることは認めます。そのシミュレーションでロボットを制御すれば、振る舞いの上では、人間に追いつき、追い越す。ここまではエーと同じです。ところがビーでは、そのシミュレーションに、意識は宿りません。だから、心をロボットに移して生き延びる、という選択肢もありません。残るのは、この惑星が最終的に、意識のない機械に支配される、という展望だけです。

では、シーとディー。この立場では、コンピュータが速さや容量でどれだけ進歩しても、計算である限り、人間を超えることはなく、いつまでも我々に仕えるままのはずです。ただし、シーには含みが残ります。今日のコンピュータではなく、意識の根底にあるはずの、計算不可能な物理的活動にもとづく装置。そんなものが未来の科学で作られたら、それは、人間のあらゆる能力を追い越すかもしれない。ペンローズも、たぶんそうなるだろう、と認めます。しかし、その装置に必要な科学的理解すら、いまはほとんど欠けているのだから、推測するのはまだ早すぎる、として保留します。
未来像を並べると、こうなります。エーなら、機械が人間を超え、我々も機械に移り住める。ビーなら、機械が人間を超えるが、我々は置き去りにされる。シーとディーなら、いまの意味でのコンピュータが人間を超えることはない。次回は、1.11「コンピュータは権利や責任をもちうるか」。法律の話です。第10回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第11回目です。今回は第1章の11番目の節、「コンピュータは権利や責任をもちうるか」。哲学の話から少し離れて、法律の話です。コンピュータの専門能力が人間に並んだり超えたりするようになったら、コンピュータに法的な責任や権利を認めなければならなくなるのか。この問いが、当時すでに法律家の関心を引き始めていました。
答えは、立場ごとにきれいに分かれます。エーなら、認める方向に行かざるをえません。十分に進歩したロボットと我々のあいだには、体の材料が違うという偶然を除けば、本質的な違いがないからです。ビーは、困った立場に置かれます。権利や責任の土台になるのは、苦しみ、怒り、意図、信念といった、本物の心の性質でしょう。ビーによれば、ロボットはそれをひとつも持たないので、権利も責任もないはずです。ところがビーでは、ロボットが人間そっくりに振る舞えることも認めるので、「心が無いこと」を確かめる方法がありません。見た目は完全に人間なのに権利がない存在を前に、当惑することになります。
シーとディーなら、話は単純です。コンピュータは心的な性質を持ちえないし、持っているように見せかけ続けることもできません。だから、権利もなく、責任もない。間違いを犯しても、責められるべきはコンピュータではなく、別のところにあります。ペンローズはこれがいちばん妥当だと考えます。ただし例によって、計算不可能な物理にもとづく未来の「装置」には、この結論は当てはまらないかもしれない、という留保がつきます。
節の後半は、責任という言葉の底にある、深い問題に触れます。我々の行動は、遺伝と環境と偶然で決まっているのではないか。どれも「自分ではどうしようもない」ものだとすれば、責任とは、ただの言葉づかいの問題ではないのか。法律が前提にする「責任を持つ独立した自己」が本当にあるのなら、いまの物理の理解には、何かが欠けているはずです。ペンローズは、この本が答えを出すとは言いません。ただ、「原因」という概念そのものを、計算を超え、カオスを超え、ランダムさも超えたものへ広げることで、自由意志の問題に通じるドアを、少しだけ開けたい、と述べます。次回は、1.12「気づき、理解、意識、知能」。言葉の整理の回です。第11回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第12回目です。今回は第1章の12番目の節、「気づき、理解、意識、知能」。この本の鍵になる4つの言葉を、ペンローズがどう使うかを決める節です。厳密な定義はあえてしません。その代わり、言葉どうしの関係だけを、はっきりさせます。
まず「理解」。ペンローズの用法では、何かを本当に理解しているためには、そこに何らかの「気づき」がなければなりません。議論が何についてのものかに気づいてもいないのに、その議論を理解している、とは言えないだろう、というわけです。ごくあたりまえの用法に見えますが、人工知能の支持者の中には、ロボットが命令に「気づいている」とは主張しないまま、命令を「理解している」と言う人がいます。ペンローズはこれを言葉の誤用と見なし、区別が必要な場面では「真の理解」という言い方をすることにします。
「知能」も同じです。理解を伴わない知能というのは、誤った名前である。真の知能には、真の理解が要る。こうして、関係が二段で決まります。ひとつ、知能は理解を要求する。ふたつ、理解は気づきを要求する。つまり、知能から理解へ、理解から気づきへと、鎖がつながっているのです。この本の第1部はこのあと、「理解」を標的にして、そこに計算では真似できない側面があることを示しに行きます。鎖がつながっているおかげで、理解が計算を超えていれば、知能も計算を超えることになるわけです。
では、いちばん底にある「意識」はどうか。ペンローズは、気づきを意識の受動的な側面と捉えます。赤い色を知覚する、苦痛を感じる、メロディーを楽しむ。これが受動的な意識で、いわゆるクオリアの問題につながります。一方、ベッドから起き上がると決める、何かをやめると決断する。これは能動的な意識で、自由意志の問題につながります。ペンローズはこのふたつを、同じひとつの「意識」の裏表と見なします。ただし「意識」の定義をこの段階で細かくやりすぎると、捉えたい当の概念を取り逃がすおそれがあるので、直観的な理解に頼る、と断ります。
面白いのは「心」の扱いです。意識は曖昧すぎて研究に値しない、と言う人ほど、「心」という言葉は平気で使う。しかしペンローズに言わせれば、「無意識の心」まで許してしまう「心」のほうが、よほど曖昧です。だからこの本では、「心」という言葉は使っても、議論の中心には置きません。次回は、1.13「ジョン・サールの議論」。有名な「中国語の部屋」の話です。第12回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第13回目です。今回は第1章の13番目の節、「ジョン・サールの議論」。哲学者サールの有名な思考実験、「中国語の部屋」が登場します。ペンローズが自分の議論を出す前に、性格のまったく違う先行の議論として紹介するものです。
中国語の部屋とは、こういう思考実験です。中国語で物語を聞かされ、中国語の質問に中国語で答える、「理解」をシミュレートするというコンピュータ・プログラムがあるとします。ここで、中国語をまったく知らない人を部屋に入れ、そのプログラムの計算とそっくり同じ操作を、手作業で根気よく実行させます。すると、部屋の外から見れば、出力は物語を理解しているように見える。しかし、操作をしている本人は、物語を何ひとつ理解していません。計算を全部実行しても理解は生まれない。だから、理解という心の性質は、計算ではありえない。これがサールの主張です。
この議論の位置づけに注意してください。サールが狙ったのは、シミュレーションは本物の理解と等価だ、と主張するエーの論駁です。サール自身は、脳の働きを計算でシミュレートすること自体は可能だと認めています。「脳はデジタル・コンピュータだ。なぜなら、すべてのものはデジタル・コンピュータだからだ」とまで言っています。つまりサールが疑うのは、理解の内側の、主観的な側面だけです。外側の振る舞いなら計算で真似できる。これはまさに、ビーの立場です。
ここが、ペンローズとの決定的な違いです。ペンローズの議論は、理解の外向きの側面、つまり振る舞いそのものに向かいます。理解の外的な現われでさえ、正しくコンピュータでシミュレートすることはできない。それがシーの主張であり、この本がこれから示そうとすることです。だから、中国語の部屋はシーを直接支持するものではありません。ペンローズの評価は、「決定的では全然ないが、エーに反対する、いくらか説得力のある弁論」というものです。次回は、1.14「計算モデルのいくつかの困難」。エーの立場が内側に抱える問題を突く回です。第13回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第14回目です。今回は第1章の14番目の節、「計算モデルのいくつかの困難」。すべての思考は計算だ、という観点エーが、内側に抱えている難問をいくつか突く回です。
最初の難問は、「実行」とは何か、です。エーによれば、気づきを引き起こすのは、適切なアルゴリズムの実行です。では、実行とは、正確には何なのか。アルゴリズムの演算の系列が、一行ずつ、膨大な書物に書き出されていると想像してください。この本を書く行為は、実行でしょうか。本がただ静かに存在しているだけでは、だめでしょうか。指で一行ずつなぞったら。点字で触れたら。ページを順にスクリーンに映したら。どこからが「実行」なのか、まるではっきりしません。突き詰めると、アルゴリズムが数学的に存在するだけで気づきが生じる、という奇妙な結論に追い込まれかねないのです。
次の難問は、クオリアです。エーの支持者も、どんな複雑なアルゴリズムでも気づきを生む、とまでは考えません。高次の組織や自己言及といった、特別な性質が必要だとされます。しかし、それなら聞きたくなります。どんな種類の計算が、「赤」の感覚を引き起こすのか。どんな計算が、苦痛や、甘さや、ぴりぴりする感じを構成するのか。これに取り組んだ試みはありますが、説得力のあるものはまだ無い、とペンローズは述べます。結局エーの支持者は、「我々に心的経験があるのは、脳の計算がとほうもなく複雑だからだ」という信念に頼ることになります。
ところが、その「複雑さ」頼みに対して、ペンローズは脳から反例を出します。小脳です。脳といえばふつう、意識的な思考を担う大脳皮質を思い浮かべます。しかし脳の後方下部には、小脳という、もうひとつの大きなニューロンの塊があります。小脳は運動の仕上げを担当します。新しい技能を習うときは、大脳を使って意識的に制御しますが、技能が身について自動的になると、小脳の無意識の活動がそれを引き継ぎます。そしてこの小脳、ニューロンの数は大脳のほぼ半分もあり、例の、最大8万個の接合部を持つプルキンエ細胞があるのも小脳です。つまり、数と複雑さでは大脳にひけをとらないのに、その活動は完全に無意識らしいのです。複雑さが意識の前提だと言うなら、なぜ小脳には意識のかけらも見られないのか。

もっともペンローズはフェアに、似た問題はビーやシーにもある、と認めます。どの立場に立っても、意識の背後に何があるのか、クオリアはどう生じるのか、という問いからは逃げられません。シーにもとづく暫定的な試みは、第2部の最後で示される予定です。次回は、1.15「現在のエーアイの制約はシーの弁護になるか」。チェスの名機ディープ・ソートの、有名な大失敗が出てきます。第14回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第15回目です。今回は第1章の15番目の節、「現在のエーアイの制約は、シーの弁護になるか」。当時の人工知能の得意と不得意を眺めて、そこにシーの手がかりがあるかを探る回です。
まず、ペンローズ自身が釘を刺します。現状から原理的な限界を推し量ることはできない。コンピュータはこの50年で異常な速さで発展してきたし、これからも巨大な前進が来るだろう。だからこの本が問題にするのは、進歩の速さではなく、何世紀先にも当てはまるはずの、原理上の制約である、と。そのうえで、当時の状況を眺めます。
すると、意外なことが見えてきます。人工知能が失敗しているのは、専門家の高度な判断のような、人間の知能が華々しく見える領域ではありません。むしろ、どんな不器用な人でも起きているあいだ中やっている、「常識」の領域なのです。当時のロボットには、部屋の隅に転がっているクレヨンが絵の完成に必要だと気づいて、歩いて行って拾って使う、という子供の日常もできませんでした。アリが毎日やっていることのほうが、最先端のロボットよりはるかに上だった。逆に、チェスでは、コンピュータはたいていの人間を打ち負かし、数値計算では人間をはるかに超えていました。
その象徴として、有名な失敗例が出てきます。当時最強のチェス・コンピュータ、ディープ・ソートに、ある特殊な局面を見せた話です。黒は、ルークふたつとビショップを持ち、駒の数では圧倒的に優勢。しかし白には、ポーンの壁という難攻不落の砦があり、キングを自陣で動かしているだけで、簡単に引き分けに持ち込めます。チェスを少し知っている人間なら、ひと目で分かることです。ところがディープ・ソートは、ためらいなくポーンで黒のルークを取り、自分の壁に穴を開けて、絶望的な負けの形を自分から作ってしまいました。駒の損得を先の先まで計算するようにプログラムされてはいても、「ポーンの壁とは何か」を、どの段階でも理解していないからです。

この失敗が示すのは、当時のシステムに真の理解が無かった、ということです。トップダウン型がうまく働くのは、システムが理解しているからではなく、プログラマーの理解が注ぎ込まれているからです。ではボトムアップ型、つまり経験から学ぶ型なら、いずれ理解の土台になれるのか。ペンローズは第3章で、それも否定する議論を展開する予定です。そして最後に、多くの人が驚く予告が置かれます。計算に還元できないことを示す舞台として選ばれるのは、歩行や視覚のような、進化の古い能力ではありません。コンピュータがいちばん得意なはずの、数学です。数学の計算そのものはコンピュータの独壇場ですが、その計算規則の根底にある数学的理解は、計算を超えている。これを示すのが、第1部の残りの目標になります。次回は、いよいよ1.16「ゲーデルの定理にもとづく議論」です。第15回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第16回目です。今回は第1章の16番目の節、「ゲーデルの定理にもとづく議論」。前回予告された「数学的理解は計算を超えている」という主張について、その根拠となる議論の素性を紹介する、予告編のような節です。
まず、「非計算的」という言葉の意味が、あらためて確認されます。それは、科学と数学の力を超えている、という意味ではありません。今日のあらゆるコンピュータの土台にある論理原理では、シミュレートできない、という意味です。言い換えると、エーとビーの立場では、理解というものの説明がつかない、ということです。
その根拠としてペンローズが使うのが、チェコ生まれの論理学者クルト・ゲーデルによる、数学的論理学の有名な定理です。次の章で、テューリングのアイディアも借りながら、ごく単純化した形で提示されます。必要な数学はわずかで、ほどほどの熱意があれば誰でもたどれるはずだ、と読者を励まします。
ただし、この型の議論には、因縁があります。ゲーデルの定理を使って「心は計算を超える」と最初に論じたのは、オックスフォードの哲学者ジョン・ルカスで、1961年のことでした。以来、この論法には多数の反論が浴びせられ、「完全に論破済み」という印象さえ流布しています。ペンローズは、そうではない、と釘を刺します。反論の多くは単なる誤解にもとづくものであり、まともな反論も、結局は「理解」の説明にはならない。自分の議論の形はルカスより批判に耐える。すべての反論には第2章と第3章で詳しく答える、と宣言します。エーかビーを取って「思考の外面はすべて計算でシミュレートできる」と主張する人は、これから出てくる議論と、細部まで折り合いをつけなければなりません。次回は、1.17「プラトン主義か神秘主義か」。第16回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第17回目です。今回は第1章の17番目の節、「プラトン主義か神秘主義か」。ゲーデル的な論法には「神秘的」な含みがあるのではないか、という批判に答える節です。
批判はこうです。ゲーデルの論法は、我々にシーかディーを強いるように見える。それは結局、神秘主義への入り口ではないのか。ディーについては、ペンローズも同意見です。彼がディーを退ける理由は、はっきりしています。世界の理解を実質的に進めてきたのは、科学と数学の方法だけだという事実。そして、我々が直接知っている唯一の心は、脳という特定の物理的なものと密接に結びついており、心の状態は脳の状態と明らかに関連して見える、という事実です。
しかし同時に、こうも言います。科学と数学それ自体が、謎に満ちた世界をさらけ出してきた。理解が深まるほど、謎はむしろ深まる。実際、物質の不思議な振る舞いに直接触れている物理学者のほうが、生物学者よりも、古典的でない世界観を取る傾向がある、と。心の謎を説明するには「科学」の範囲を広げる必要はあるが、これまで抜群にうまくいってきた科学の方法と手を切る理由はない、というのがペンローズの態度です。
そのうえで、シーを受け入れるなら伴ってくる含意が示されます。それが、プラトン主義です。プラトンによれば、数学的な概念と真理は、時間も物理的な場所も持たない、独自の現実の世界に宿っています。完全な図形のイデアの世界です。そして我々の心は、数学的概念への「気づき」と推論の能力を通じて、このプラトン的世界と、何らかの直接的な接触を持っている。計算だけで動く装置には得られない力を心に与えているのは、この接触なのだ、と。プラトン的知識と神秘主義がどう違うのかは、このあとの節でさらに詰められます。次回は、1.18「数学的理解の重要性とは何か」。第17回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第18回目です。今回は第1章の18番目の節、「数学的理解の重要性とは何か」。数学と数学哲学の高尚な話が、人工知能や心の問題とどう関係するのか、という当然の疑問に答える節です。
疑問はもっともです。人間の心的活動のうち、数学の基礎づけに向けられているのは、ごくごく一部です。ゲーデルの定理は数学的論理学では重要でも、心の哲学には限られた意味しかない、と考える哲学者やエーアイ支持者は大勢います。ペンローズの答えはこうです。自分がゲーデルの議論を使うのは、人間の理解がアルゴリズムではありえないことを示すためである。それは、どれかひとつの文脈で示せれば十分である。ある型の数学的理解が計算的な記述をすり抜けることさえ示せれば、心が非計算的な何かをできることは確認されたことになり、他の心的活動にも同じものがあるはずだと考えるのは自然な一歩だ。水門は開かれる、と。
では、なぜよりによって数学なのか。意識は、数学よりはるかに広い現象です。犬もおそらく気づきを持っていますが、犬は数学をしません。数学的思考は、意識的活動の中でも特殊で風変わりな一部にすぎない。それでも数学を選ぶ理由は、こうです。ある活動が計算的でないことの、証明に近いものを見つけられる見込みがあるのは、数学の中だけだからです。計算の問題は、本来まさに数学的な問題なのです。
もうひとつの異論にも答えます。「赤の感覚が計算で生じないことなど自明ではないか。証明など不要だ」というものです。ペンローズは共感を示しつつ、こう返します。その自明さの議論は、意識の受動的な側面にしか触れていない。中国語の部屋と同じで、エーへの反論にはなっても、ビーとシーを区別できない。そして自分は、機能主義、つまりエーを、そのホームグラウンドである計算の土俵で攻撃しなければならない。だから数学なのだ、と。次回は、1.19「ゲーデルの定理は常識的振る舞いとどうかかわるか」。第18回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第19回目です。今回は第1章の19番目の節、「ゲーデルの定理は、常識的振る舞いとどうかかわるか」。ひとつ、もっともなパズルから始まります。ペンローズは以前、エーアイは専門家の技より「常識」で躓く、と言いました。ところが今度は、非計算的なものは高度な数学的理解に現れる、と言っている。話が逆ではないか?
答えはこうです。逆ではない。「理解」というものには、高級だろうと日常的だろうと、同じ種類の非計算的過程が含まれている。自然数が無限にあることを本当に分かること。細長い物体が窓のつっかえ棒になると気づくこと。縄の動かし方しだいで動物を捕まえたり逃がしたりすると分かること。「幸福」「闘争」「明日」という言葉の意味をつかむこと。リンカンの左足がワシントンにあるなら右足もたぶんワシントンにある、と分かること。どれも同じ「気づき」の働きであり、そして、どれも現実のエーアイが呆れるほど手こずることがらなのです。言葉の意味が人から人へ伝わるのも、不完全な説明を補う共通の気づきがあるからで、これを欠くことが、感覚を持たないロボットの致命的な弱みだとされます。
それを支える例が、自然数です。子どもは、オレンジやバナナを使ったほんのわずかな、適切とも言えない説明だけで、「いち」「に」「さん」が何を意味するかを掴み、しかもそれが際限なく続く系列の一部だということまで捉えます。何らかのプラトン的な意味で、子どもはすでに自然数が何かを「知っている」のです。神秘的に聞こえますが、そうではありません。プラトン的知識とは、我々にとって「自明」なことがら、常識に還元できることがらです。それなのに、後で見るゲーデル的論法から分かるとおり、自然数の性質を計算的な規則で完全に特徴づける方法は無いのです。
この節には、きれいな実演もあります。掛け算の交換法則、エーかけるビーは、ビーかけるエー、の視覚的な証明です。黒丸を、横5個、縦3行の長方形に並べてください。行ごとに読めば、5個のかたまりが3つ。列ごとに読めば、3個のかたまりが5つ。同じ長方形をふた通りに読んだだけなので、3かける5と5かける3は等しい。しかもこの図で大事なのは、3と5という特定の数が、何の役割も果たしていないことです。数を心の中で「ぼかせ」ば、どんな巨大な数の組でも、この等式が成り立つことが分かる。ひとつの視覚化から、無限に多くの事実が一挙に確認できるのです。
もちろん、すべての数学がこのように自明に見えるわけではありません。長い推論の連鎖が要ることもあります。しかし数学的証明とは、まさに、一歩一歩が自明であるような連鎖のことです。そこで、こう考えたくなります。自明なステップをすべて前もって列挙してしまえば、数学は機械的な操作、つまり計算に帰着できるのではないか。ゲーデルの論法が示したのは、これが不可能だ、ということです。新しい「自明の」理解の必要は、決してなくなりません。数学的理解は、盲目の計算には還元できないのです。次回は、1.20「心的な視覚化と仮想現実」。第19回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第20回目です。今回は第1章の20番目の節、「心的な視覚化と仮想現実」。頭の中で何かを思い描くとき、脳では実際に何が起きているのか、という話です。
比較の相手として、仮想現実、ヴァーチャル・リアリティが出てきます。存在しない建物などをコンピュータでシミュレートし、頭や体の動きに合わせて映像を作り、被験者にその構造を「現実」として知覚させる技術です。1994年の本に、すでにこれが出てくるわけです。そして、我々が頭の中で何かを視覚化するときに起きていることは、この仮想現実の計算とよく似たものだろう、と論じる人たちがいます。確かに我々は、頭も目も体も絶えず動いて網膜の像がずれ続けているのに、「心の目」の中には変化しない心的モデルを保っています。この補正は、仮想現実の計算とそっくりです。

エーの支持者なら、意識的な視覚化とは、外部世界を頭の中で計算的にシミュレートした結果だ、と考えるでしょう。これに対してペンローズの提案は、視覚的な光景を意識的に知覚するときに関わっている「理解」は、そうした計算によるモデル化とは、まったく別のものだ、というものです。
では、デジタル計算でなく「アナログ・コンピュータ」ならどうか、という代案も検討されます。脳の中の何らかの物理的構造が、外の世界を映す模型として働いている、という考えです。外の剛体の運動をモデル化したいなら、内部に同じ形の小さな物体を持てばよい、という直接的な例から、距離の代わりに電位を使うような間接的なものまで考えられます。しかし、これは1.8節で調べたとおりです。今の物理学の枠内では、アナログがデジタルにできないことを達成できると信じる理由はありません。そこで結論はこうなります。もし視覚的な想像が本当に非計算的なことをしているなら、その基盤は、既存の物理学の外に探すしかない。次回は、第1章の最終節、1.21「数学的想像は非計算的か」。第20回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第21回目です。今回は第1章の最終節、「数学的想像は非計算的か」。第1章の締めくくりです。
まず、正直な断りが入ります。視覚化そのものが計算でシミュレートできない、ということを直接示す議論を、ペンローズは知りません。彼が非計算的だと証明可能だと主張しているのは、もっと限定されたもの、すなわち、自然数の性質の理解です。第2章で見るように、この理解は、有限個の規則の組にまとめることができません。そこから、計算ではシミュレートできないことが導かれます。「コンピュータを訓練して自然数の概念を理解させた」という類の話は、だから真実ではありえない。正しい概念を持つ我々は、どんな有限の規則の組でも答えきれない問題群に、少なくとも原理的には、正しく答えられるからです。そして、視覚化の気づきと数の気づきのあいだに、明確な線を引く理由はない。だから視覚化も非計算的だろう、と推論されます。
面白い指摘がひとつあります。世の中のうまいシミュレーションには、ほとんどの場合、人間の数学的理解が注ぎ込まれている、という点です。剛体の運動のシミュレーションは、17世紀のデカルト、フェルマー、デザルグらの座標幾何学の洞察に依存しています。ひもの結び目の扱いに必要な幾何学は、20世紀になってやっと発展したものです。こんがらかったひもの輪に結び目があるかどうかは、手で触って常識を働かせればさほど難しくないのに、同じことをする計算アルゴリズムは、驚くほど複雑で非効率です。つまり、うまいシミュレーションはトップダウン型で、人間の理解と洞察に大きく依存しており、ボトムアップだけの取り組みから良い結果が出るとは思えない、とペンローズは見立てます。
章の結びは、こうです。真の理解に不可欠な「気づき」をもたらすのは、どんな物理的過程なのか。それは本当に、計算的シミュレーションを超えたものでありうるのか。ペンローズは、シーは真の科学的可能性だと信じる、と述べ、読者に、常識に反して見えても推論と証拠に注意を払ってほしい、と頼みます。これで第1章、「意識と計算」はおしまいです。次回からは第2章「ゲーデル的論法」。この本の第1部の心臓部に入ります。第21回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第22回目です。今回から第2章、「ゲーデル的論法」に入ります。最初の節は、2.1「ゲーデルの定理とテューリング機械」です。
章の冒頭に、この本でいちばん逆説めいた主張が置かれます。思考がただの計算にすぎないなら、それがいちばんはっきり見えるのは、思考のもっとも純粋な形である数学のはずです。ところが、事実は正反対で、意識的思考には計算で捉えられないものがある、という一番明白な証拠こそ、数学の中に見つかるのです。
その証拠が、ゲーデルの定理です。1930年、ケーニヒスベルクの学会で、若き数学者クルト・ゲーデルは、のちに有名になる定理を発表し、世界の指導的な数学者たちを驚倒させました。定理が議論の余地なく確立したのは、こういうことです。健全な数学的証明の規則をどれだけ集めて形式的なシステムにしても、通常の算術の真なる命題をすべて証明するには、原理的にさえ、決して十分ではない。さらにペンローズは、もっと強くこう主張します。そうしたシステムは、人間の直観と洞察が原理的に到達できる命題を証明するのにさえ十分ではない。だから、人間の直観と洞察は、いかなる規則の組にも還元できないのだ、と。これを読者に納得させるのが、第2章の目的です。
道具立ても決まります。「形式的システム」の厳密な定義は要りません。代わりに、テューリング機械を使います。おさらいすると、テューリング機械とは、数学的に理想化されたコンピュータです。長さに限りのないテープの上のマークを、一歩ずつ読み書きしながら動き、有限個の内部状態を持ち、「ストップ」という命令に出会うと、答えをテープに残して停止します。どんなテューリング機械をも真似できる万能テューリング機械というものがあり、現代の汎用コンピュータは、実質的にこれです。
ペンローズは読者をこう励まします。これからの数節で使う数学は、ごく単純な算術だけ。ややこしい箇所はあるが、それは「ややこしい」だけで、予備知識が要るという意味で「難しい」のではない。好きなだけゆっくり、何度でも読み返してほしい、と。この解説も、同じ調子でゆっくり進みます。次回は、2.2「計算」。具体的な計算の例から始めます。第22回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第23回目です。今回は第2章の2番目の節、「計算」。ごく具体的な計算の例をひとつ、手を動かして眺める短い節です。
この本で「計算」とは、テューリング機械の活動、つまりプログラムにしたがうコンピュータの作動のことでした。足し算や掛け算だけでなく、はっきり定義された論理の手順も計算に含まれます。そこで、こんな課題を考えます。課題エー。「3つの平方数の和にならない数を見つけよ」。ここでの数は自然数、ゼロ、1、2、3、4、と続く数のことです。平方数は、同じ数を2回掛けたもの。ゼロ、1、4、9、16、25、という数たちです。
計算は、こう進みます。ゼロから順に、それぞれの数が3つの平方数の和で書けるかを調べる。ゼロは、ゼロ足すゼロ足すゼロ。1は、ゼロ足すゼロ足す1。2は、ゼロ足す1足す1。3は、1足す1足す1。4は、ゼロ足すゼロ足す4。5は、ゼロ足す1足す4。6は、1足す1足す4。ここまでは全部書けます。ところが7は、候補になる平方数の組み合わせをすべて試しても、どうやっても3つの平方数の和になりません。そこで計算は停止し、答えは7、となります。
それだけの話に見えますが、ここには仕込みがあります。この計算は、答えが見つかったから止まりました。では、答えが存在しなかったら、どうなるのか。計算は止まらず、永遠に走り続けます。次回、2.3「非停止計算」で、その「止まらない計算」を見ます。第23回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第24回目です。今回は第2章の3番目の節、「非停止計算」。止まらない計算の例を3つ見ます。
課題ビー。「4つの平方数の和にならない数を見つけよ」。前回の課題の、3つを4つに変えただけです。走らせてみると、7は、1足す1足す1足す4。8も書ける。9も、10も書ける。どこまで行っても、見つかりません。答えはものすごく大きいのだろうか、と思いたくなりますが、実は、この計算は決して停止しません。どんな自然数も4つの平方数の和で書けることは、1770年に、フランスの大数学者ラグランジュが証明した有名な定理だからです。これは簡単な定理ではありません。あの天才オイラーが懸命に取り組んで、証明できなかったほどです。
課題シー。「ふたつの偶数の和になる奇数を見つけよ」。これも決して止まりませんが、今度は誰にでも分かります。偶数と偶数を足せば必ず偶数になるので、奇数になることは決してないからです。
課題ディー。「2より大きい偶数で、ふたつの素数の和にならないものを見つけよ」。4は2足す2、6は3足す3、8は3足す5。この計算が止まらないかどうかは、実は誰も知りません。これは1742年にゴールドバッハがオイラーへの手紙で提起した、有名な「ゴールドバッハの予想」そのもので、今日にいたるまで証明されていないのです。
並べてみると、止まらない計算にも3種類あることが分かります。止まらないことが明白なもの。止まらないと分かっているが、それを示すのが難しいもの。止まらないかどうか、誰にも分からないもの。ここから次の問いが立ちます。数学者は、いったいどんな手段で「この計算は止まらない」と確信するのか。次回、2.4で、その問いに取り組みます。第24回は、ここまでです。
「心の影」の解説、第25回目です。今回は第2章の4番目の節、「ある計算が停止しないことを、どのようにして決定するのか」。数学者が「止まらない」と確信するとき、頭の中で何をしているのかを、実例で見せる節です。
例に使われるのは、六角形数です。1、7、19、37、61、91、と続く数で、点を正六角形の形に並べたときの点の総数です。ひとつ前の六角形のまわりを、点の輪でぐるりと囲むと次の六角形ができるので、1から始めて、6、12、18、と6の倍数を順に足していけば得られます。

さて、この六角形数を、頭から順に足し合わせていきます。1。1足す7は8。さらに19を足すと27。さらに37を足すと64。さらに61を足すと125。この、1、8、27、64、125という数の並びに、何か気づきませんか。すべて立方数、つまり同じ数を3回掛けた数なのです。1は1の3乗、8は2の3乗、27は3の3乗、64は4の3乗、125は5の3乗。では課題イー。「六角形数の和で、立方数にならないものを見つけよ」。この計算は止まるのか。
ペンローズは、止まらないことを、図で納得させます。立方数とは、球を立方体の形に積んだときの総数です。この立方体を、ひとつの角から始めて、後ろ、横、上の3つの面からなる殻を、次々にかぶせて作っていくと考えます。そして、その殻を、立方体の対角線の方向から、遠くから眺めてみてください。何に見えるか。六角形に見えるのです。ひと回りずつ大きくなる六角形。つまり、立方体は六角形の殻の重なりであり、立方数は六角形数の和なのです。これで、課題イーが決して止まらないことが確かめられました。



この推論は、形式的な論証ではありません。しかし完全に健全です。ここがこの節の第一の要点です。あらかじめ決められた規則のシステムに「形式化」されていなくても、健全な数学的推論はある。もちろん、望むなら数学的帰納法を使って形式的な証明に書き直すこともできます。すると、次の問いが浮かびます。帰納法のような明快な規則をそろえれば、止まらない計算の非停止性は、いつでも立証できるのではないか。
答えは、驚くべきことに、ノーです。これがゲーデルの定理の含意のひとつです。帰納法だけが不十分なのではありません。規則の適用が計算的にチェックできるような形式化された手順のシステムは、どれだけ用意しても、必ず取りこぼしがある。止まらないのに、そのことを規則では確認できない計算が、必ず残るのです。ただしペンローズは、これを悲観的にではなく、肯定的に読みます。規則の集合として形式化できるものの向こうに、理解と想像力を持って考える人なら誰にでも使える洞察がある。規則は理解の部分的な代用にはなっても、完全に取って代わることはできない。次回はいよいよ、第1部の心臓部、2.5「ゲーデル・テューリングの結論ジー」です。第25回は、ここまでです。